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 環境が変わったり、仕事のつかれで気分がふさいだりという程度のことですぐ連絡不精になってしまう性癖で、いろんな人たちと疎遠になってしまった。たまにしか会う機会のない友だちに自分の考えていることを伝えれたらいいなとずっと思っている(Spotifyでプレイリストを公開してくれている友だちが2人いて、いま何を聴いているのか知ることができてうれしい)。SNSではすぐに流れてしまうので、ブログを作った。がんばりの方向としてまちがっているかもしれないが、日常生活の中に文章を書く機会もなかなか無いから、覚え書きや引用、事務的な記録から始める。

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 人生は長くても百年そこらと見積もられているが、じっさいは労働したりストレスで酒を飲んだり睡眠が浅かったり差別的言説の直撃を喰らったりでもっと短い。そんな物理的な条件に左右されてたまるか、絶対に許さんという気持ちになる。二百年くらい余暇がある前提で物事はゆっくり考えたい。

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 マネキンや案山子だと思っていたものが実は人間だったと判明すると、びっくりする。しかし反対に、これは人間だと思っていたものがマネキンだと判っても、びっくりする(というよりも、ぞっとする)。

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 もう2年以上前になると思うが漫画『ワンピース』の「全伏線、回収開始」というコピーが話題になったり、ついこないだも『東京リベンジャーズ』が物語上の因果をあまりにも多く説明しないまま完結し、そのことが物議を醸した。これは果たして良い傾向と言えるだろうか。タイムリープものや異世界転生ものの流行とも関連する話になるだろうが、「伏線回収」という言葉もまた「読み手があらかじめ持っている想像力の範囲内で作品が完結すること」を強く促すようなきらいがあるのではないだろうか。

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 『ナイツ塙の自由時間』というチャンネルで、東京03飯塚が伏線回収について「そんなに大したことかなと思う」「後半に出てくるくだりを、前に入れておくだけ」「そりゃつながるよ。つながるように作ってんだから」と言っている(https://youtu.be/y2tskrpX3Rg)。言ってみればごく当たり前のことだが、それをわざわざ言わなければならないくらいの状況にはなっているということでもあると思う。

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 画家は理屈から演繹して絵を描くわけではない。絵を描きながら、様々なことを答えもなく考える。描きながら「その絵を描かなければならない必然性」がだんだん分かってきたり、「これはもう誰かが描いているな」とか「こういう絵がたしかあったはず」という参照点がおぼろげに浮かぶこともある。そういった問いに、画面上の矛盾や課題、ここに絵の具は置けないなという制作上の制限を加えて、格闘しながら問いを進めていく。そのような複合的・重層的な問の積み重ねとして、「ここはうまく行った/ここは失敗した」という結論のようなものが浮かび上がってくる(絵画が一応の完成を見る)。

 ここでなにかが浮かぶと言っても、必ずしも参照する絵を事前に決めて取り掛かるわけではない。ただ自分の絵を見て、手を動かしながらたえず考えている。だから「たしかにこの絵を見たことがある」という絵が(なかなか見つからないが)、後から見つかることもある。そうして、そうかあの絵のことが頭にあったのかと画家は合点する。ところが、そういったことにひとたび言及すると、「あの絵の“元ネタ”はこれ」とネットに書かれてしまうようなことがあるという。「そういう人はぜったい絵を描けません、残念ながら。“ネタの絵があって絵が描け”ません、残念ながら」

https://youtu.be/gAGhoGThAeo

(45〜53分くらい)

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 anoの新曲「ちゅ、多様性。」、まるで往時の相対性理論みたいな曲だと私が話していたら、じっさいに元・相対性理論の真部脩一が楽曲提供をしているのだと教わる。流行っていた当時あまり好きではなかったし、ペンタトニックスケールがどうこう音楽理論の話も私はさっぱり分からないのだが、頭の中には「相対性理論っぽい曲の特徴」が残っていたということか。

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 ラジオパーソナリティの男性が「いまの若いひとはZ世代なんて言われてるそうですけども、我々なんかは当時の大人に “新人類” と、まぁ酷い言われようをしていたものです」と話していて、こういう歳の取り方をしないように気をつけなければと思った。世代論と組織論をぶつ人間の傲慢さといったらない。