2

 fluentpet という製品があるそうだ。

 「あそぶ」「ごはん」「おやつ」「いい子」「ちょっと」「はい」「いいえ」「さんぽ」「おにわ」「うみ」「ドッグラン」……といった飼い主の声を録音/再生することのできる饅頭サイズのボタンを、六角形のシリコンマットレスにたくさん嵌め込めるようになっている。プログラムどおりに学習を進め、「ボタンを押せば飼い主に意図を伝達できる」と理解できるよう繰り返しペットを躾けることで、「ボタンを押すこと」を符丁にしてペットと意思疎通ができるようになりますよ、という商品だ (適合・習熟するかどうかはトレーナー側の力量、環境はもちろん、種差や個体差にもよるらしい)。

 じっさい、動物とともに暮らす人びとはこのようなモジュールを用いなくとも、犬や猫が何を言わんとしているか、じゅうぶんに把握することができると経験的に知っているだろう。単純な快不快や喜怒哀楽、ご飯がほしい、撫でてくれ、etc..だけではなく、「あなたが悲しいと、私も悲しい」であるとか「今はたいして散歩に行きたくないけど、そうやって言うならまぁ行ってあげてもいいよ」「ご飯たべたい、その用事おわってからでも構わないから」といった複雑な意志の伝達も、かれら動物は身振り尾振りで伝えることができる、と。

 だが fluentpetでは「痛い」というボタンを設置して教えると、かれらが自分の意志でそれを押して「痛み」を表明することができるのだそうだ。これを知って、私は正直かなり動揺してしまった(ペットが痛みを感じる瞬間を意図的に作り出すことはできないため、習得機会は限られるが)。これは相当すごいことではないだろうか。痛みを正確に訴える/受け取るという疎通は、人間の場合でもかなり難しい。
 ヒト語と動物語の架け橋となるツールを置いてルールを覚えさせることで、「ちょっと痛そうだ」「なんか調子が悪いのかな」という一方向の推察と解像度にとどまっていたものが、「お腹が痛い」「足が痛い」という動物自身の訴えとして具体化したり、「すごく / ちょっと - 痛い」とペインスケールのような使い方ができたり……。たとえば老年期や看取りの際に、人間側がしてあげられるケアの質も変わってくるかもしれない。

 けれどもこういった類の道具を使うことは、猿に問題を解かせてコミュニケーションができたとよろこんでいるナントカ教授とか、子どもの能力開発と称してフラッシュカードを高速でめくりまくる教育者と似て、前提として相手をバカにしているから可能になる傲慢なのではないか、という疑念も私は払拭できない。
 人間の思う「言語」の型に嵌め込みたいというのは一個の支配でもあり、やっぱり抵抗感が残る。