2023-4-4

さいきん面白かった記事

○坂本龍一、レストランのBGMに耐えかねて…自分で選曲しちゃいました。

https://courrier.jp/news/archives/130623/

その選曲リスト

https://spotify.link/sFRtrevhIyb

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○見た目を一切問わない「アンチ・キャスティング」は、エッセイで決める。お約束になった“多様性”から抜けだす、新・モデルの起用方法

https://heapsmag.com/unti-casting-the-underargument-interview

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○Nintendo Switchのゲームソフトは苦い?驚異の苦味成分「デナトニウム」の真実

https://logmi.jp/business/articles/320920

「世の中をよくする不快のデザイン展」についての記事で知った。すぐに自分のスイッチのカセットを擦ってその指を舐めてみたら、舌がピリピリと痛いくらい苦くてビックリした。 リカちゃん人形の靴と比較して舐めてみた人の記事もある

https://omocoro.jp/bros/kiji/187816/

(※成人男性がリカちゃんの靴を舐めている画像があります)

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○あのジャラジャラって何のため?昭和世代には懐かしい「珠のれん」…最後の製造会社に聞いた

https://www.fnn.jp/articles/-/503330?display=full

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○虐殺とタブー視、それは「遠い過去」なのか ――韓国・済州島の記憶 安田 菜津紀

https://d4p.world/news/18698/

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あと記事は引かないけどもChatGPT-5が年末にはリリースされる見込みらしい。

すみっコぐらしカフェ

 今朝見た夢。中学でも高校でも大学でもない組織に私たちは属している。だだっ広い公園か野原か、そんなような場所で、文化祭の出し物をしないといけないという話だ。出店内容を今日かんがえて準備し、明日が本番だということになっている。ヤバいよ時間がないよ。と焦りながら、生花店で働いていた頃の同僚や上司と協議する。「例えばなんですけど、すみっコぐらしのカフェみたいなやつは、どうでしょうか」私が提案してみたら、いいね楽しそう!と大いに盛り上がって即座にそのまま採用される。ちょっとうれしい。というわけで、私は小売店やゲームセンターを訪ね歩いて、すみっコぐらしのぬいぐるみをかき集めて来る。その間、同僚たちは急ピッチで作業を進め、どうやって作り上げたものだか分からないがプレハブどころではない、ちょっとしたコテージのような立派な建物を設営している。えー!?これはすごいですねー!と私は持ってきたぬいぐるみを袋から取り出して言う。それらを室内にバランスよく配置し、ぬいぐるみ同士が会話してるように見える感じを出す。狭間の空間はカーテンを垂らして隠したり、ドリンクカウンターを置いてそれっぽく誤魔化したり、生花店の先輩たちは、そりゃ装飾のプロだもんなぁと納得できるような見事な仕事ぶり。よそは500円でやってるらしいけど、うちの入場料は300円にしよう、コーヒーや紅茶はインスタントで大丈夫だからカップだけは紙コップじゃなくてそれらしく陶器の物にして、お茶請けにはパウンドケーキを薄く切って提供しよう、すみっコぐらしを楽しみに来るんであってお菓子を楽しみに来るわけじゃないでしょ、量は要らないよね、と作業しながら話がまとまる。なんとかどうにか準備が全部おわった、あしたは本番がんばろう!

 くたくたになって家に帰る途中、はたと気がついて私は思う、「もし《すみっコぐらしカフェ》と銘打って利益を得たら、それって著作権とか商標の問題で引っかかるんじゃないだろうか…」それで急いで近所の副店長Oさんのアパートへと走って行く。Oさんは勤務していた当時に私をひどく難詰したり威圧的に説教したりする上司で、ひらたく言えばパワハラ、でも後半は優しかった人だ。Oさんは玄関先で「どうしたん急に?」と眠そうにメイクオフした目をこすっている。「今さっき気がついて、こんなこと今さら言うのは馬鹿馬鹿しいかもしれないんですが、」中略「だから《すみっこ生活》みたいな、これはパチモンですよと明らかに分かる名前にするか、もしくは文房具みたいなのを中で売るような形に変えたほうが良いのかなーと思いまして…」私はおこられたくないので「今更こんなこと言ってスミマセン」感を強調しつつ提案する。するとOさんは「あーうん別にいんちゃう?それで大丈夫よ。Cくんに全部まかせるわぁ」と機嫌よく、しかし投げやりに返答して、とくに指示もなくオヤスミーと戸を締めた。

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 私が覚醒してから考えたのは、この夢は私の脳が考えたのに、なぜ「著作権か商標で問題になる」と最初から構想しなかったのか?ということだ。夢を見ていない状態の私なら、最初から「これは著作権とか引っかかると思うんで」と主張しているはずなのだ。

4

 柴田ケイコ「パンどろぼう」シリーズの既刊4冊を読んでみたのをきっかけに、新作『ドーナツペンタくん』を読んでみたのだが、これがめっぽう面白い。

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 年末にタクシーで移動していると、目的地の半分にさしかかったところで、それまで押し黙っていたドライバーが「兄ちゃん、ワクチン打ったぁ?」と口を開いた。窓は換気のためほんの少し開けてくれていた。

 2度は打ったんですけど、2度目で副反応が強く出たから、それ以来なんもしてないんですよ、と私はおそるおそる、しかし語気やや強めの関西弁で返事する。感染症を排外主義の口実とする紋切り型のレイシストや、「コロナはただの風邪」論者との多くの素晴らしい出会いのおかげで、私はいつも野生動物のように警戒を怠らない。けれどもその乗務員はそういう邪悪な道には立ち入らず、ただ「おお、ほんで?どうなったんその後?」と話を続けるよう私に促した。というのも、彼のパートナーはワクチンを接種してからしばらくの間、目眩が止まらなくなってしまったのだという。ふらっふらになって、まともに歩かれへんようになってもてな、何しようご飯つくろう思ても身体が動かん言うて、しばらく出前でな、ものっすごしんどそうやったわ。

 曰く、初回の接種はA社の薬剤で副反応はなんともなかったが、2度目以降、B社のワクチンでは上記の症状が出た。働いている会社の要請で嫌いやながら3度目も接種したがやはり酷い症状が出て、それを訴えても医者は匙を投げて診てくれないし、会社は4度目を打てと言ってきたから、これ以上打てというならお暇いただきますよと告げると、以降は何も言われなくなった。そういうわけで彼は自身の関心から、客を乗せるたびに聞き取りをしている。まったく同様の症状が出て仕事を辞めざるをえなくなった40代の男性を一人、乗せたことがあるのだと言っていた。

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 「ぎんさんは性格がわるい」。90年代に有名になった蟹江ぎんさんのご生前、ものすごい偏見が言われていたことを急に思い出した。子どもの私が見知っていたということは、大人たちが口性無くそのように話していたということだろうし、ゴシップやワイドショーにそういう話があったかもしれない。

 「ぎんさんは根性がわるそうだ」の枕には必ず「きんさんはかわいいのに、」という対比があったと思う。高齢者を「かわいい」「おもしろい」といって消費したり、あるいは「ちえぶくろ」として活用の対象とする仕方はどんどん拡大、普遍化してきたと私は感じているが、これは有り体に言えば「労働力としては無用であるがキャラクター消費はできる」ということで、小泉進次郎や安倍晋三が推進した「人生100年時代構想」=「意欲ある高齢者に雇用を提供し、リカレント教育を拡充する(貧乏人は死ぬまで働け)」路線はこの延長線上にある。

 他方、年齢を重ねていることを社会における悪と見做す近年の「老害」言説は、社会保障や医療の介入を受けずに寿命を全うすることを美徳とする「ピンピンコロリ」「畳で死にたい」言説の土壌の上に覆いかぶさる形でその根を伸ばしている。老いること自体を人々に嫌悪させることは生政治を行う上で都合が良いためだろう(これは自宅での看取り推進など、社会保障の削り取りや緊縮、人権に対して市場を上に位置づける新自由主義と大いに関係がある)。生活自立度や自立心の高い高齢者に対して「根性が悪そうだ」というようなレッテルを貼ることや、認知症の周辺症状が発現することを「人生で功徳を積んで来なかったことの応報」であるかのように語る身振りは、現在に連なるそういった風潮の嚆矢だったかもしれない。

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 どうすればケアにかかわる仕事を続けて行くことができるのか、休みながらずっとなんとなく考えている。

 旅行支援事業による宿代割引を利用するために陰性証明を発行する旅行者のほうが、高齢者施設の利用者よりも頻回にPCR検査を受けている。ともすれば、看護師や介護職員よりも医療系でない企業に勤めている人のほうがマトモに検査を受けているようにも見える。それでも、みんな利用者や現場を守るために闘っているから……と思って仕事を続けてきたけれど、いざ自分が罹患してみると、どの発熱外来に電話をかけても「基礎疾患の無い方には自宅待機をお願いしております」と言われて検査もできず、ウイルスを排出しながら39度の体を引きずって都心まで1時間かけて移動し、廃業したラーメン店の居抜き物件であまりにも杜撰な簡易検査を受けさせられて、情けないことだが、言葉もなく疲れてしまった。でも本当はなんとかしてケアのことを考え続けたい。

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ALPS処理水のCMがどう考えてもヤバいので見て下さい。

https://youtu.be/3Xk8Kjfxx84

 

3

 当日、開演が目前に迫ったライブ会場は人びとで混み合い、すでに定刻は過ぎた。さていよいよ演者がステージに現れるか、いやまだか――というその時、会場全体の期待感がムワッと匂い立つように高まるのを、全員が肌で感じ取る――こういう現象に、名前はあるのだろうか。いやそんなの当たり前じゃないか、他でもなくそのライブを観るために集まってきた数百人なのだから。それに「ムワッと匂い立つように」感じるのは照明の効果を高めるため粘度の高い水分をスモークマシンで散布しているからで、それが霧掛かったようになるから視覚的にも変化がある。あと隣の人が「もう開演時間すぎてるな」と気付いて急に黙ったら、「あれ、そろそろ開演か」とドミノ式に口を結んで行くから空気も変わるし――しかしそうとは分かっていても、自分の位置からは見えない3列うしろの他人が心に浮かべている期待まで、まるで自分のそれのように感じるのはやっぱり面白い。自分の眼だけではなく、他のたくさんの眼が真っ暗なステージを見つめているという直感。ホドロフスキーのサイコ・マジックじゃないけれど、個々の「私」の輪郭が融解して、会場全体が一個の蜂の巣のようになっているんじゃないか。

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 サッカーワールドカップが終わった。国威発揚におあつらえ向きのイベントがひとつ終わるたびに、水攻めの拷問になんとか息を継いで耐えているような気持ちになる。ドーハの悲劇、Jリーグ発足、ラモス、アルシンド、キングカズ、ゴン中山!と言っていた当初まだ私は5〜10歳だったが、世間に奇妙な一体感が形成されているらしいことは現在と同程度に理解していた(「ドーハの悲劇」って三国志の「桃園の誓い」みたいなやつ?)。「日韓ワールドカップ」「星野ジャパン」「羽生5回転に挑む」など名前や形式は変われど要は全部おなじことだ。2022年末、インターネットで流れているニュースの三笘選手が泣いている姿、森保監督がスタンドに頭を下げている姿の写真を目にすると、サッカーが嫌いで仕方ない私のような人間ですらスイッチが押されたみたいに泣きそうになる。多分あれは天皇が死んだとき「一億総自粛」になるのと同じ成分でできている。

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 坂本慎太郎のライブを観てきた。

https://open.spotify.com/playlist/3p28uVhWHiADC6gj33pAVk?si=gnmnPcb5TMOkAX2mSDlH3w

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 例えば志村けんのような人物は、昔の映像で東村山音頭などを踊る青年期を見てみても、基本的には亡くなるまでずっとあの「志村けん」だったと思う。そのように私が感じるのは、志村けんが老けていく過程を見ずに育った世代だからだろうか。介護に携わっていると、現在の高齢者の姿からその人の全盛期の様子について推し量って手触りを得ることが難しいと感じるが、なにかの拍子に、「若い頃を知っていたら、このような新境地に至っているとは想像もできなかったかもしれない」と逆ベクトルの想像が働くことがある。

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 坂本慎太郎の存在を知ったのは私が16〜7歳だからから20年近くになる。ゆらゆら帝国の「Sweet spot」がリリースされた頃だった。

 歌手は、50代になると年相応に高音が出しにくくなってくる。それはふつう「衰微」と捉えられると思うが――といっても坂本慎太郎はめちゃくちゃ声が出るほうだが――声が出るとか出ないとか、そういうことが関係なくなるような地平まで辿り着いているとライブを観に行くと感じる。

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坂本が楽曲を提供して、元ちとせの新曲「船を待つ」が出た。あなたが今年いちばんよく聴いた曲はこれですよ、とSpotifyに教えてもらった。元ちとせのライブを、いつか奄美で見れたらいいな…

https://open.spotify.com/track/0mRfwwTMX6cjbIgu5JxrHl?si=z1lSu_0zSOyoWXmGxYPd8A

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 かつて「4オクターブの圧倒的な歌唱力」みたいな紹介が流行ったと思うのだが、今そういう風な語りは減っている気がする。

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 療養中のご身分だが、本も読まずにニンテンドースイッチでポケモンやスプラトゥーンばかりしている。

 「スプラトゥーン」作中に「サーモンラン」というミニゲームがあるのだが、そこで流れるとあるbgmが奇妙でおもしろい。私が子どものころ奇抜でカッコイイと感じていたアニメ「ミュータント・タートルズ」テーマ曲の5倍くらい奇抜だ。

https://youtu.be/nzn2AJf2gF4

 敵である“シャケ”の鼓笛隊が自軍を鼓舞するための音楽、という設定なのだが、

《我々が“音楽”という言葉を聞いて記号的に想像する、「これってこういうものだよね」とか「こういうジャンルね」といったものからまったくもって逸脱したものを作らないといけないのではないかと考えた》

という。チェロ、ティンパニー、DJのスリーピースバンドという編成を選んだ理由も興味深い。

https://s.famitsu.com/news/201711/17145896.html

 

2

 fluentpet という製品があるそうだ。

 「あそぶ」「ごはん」「おやつ」「いい子」「ちょっと」「はい」「いいえ」「さんぽ」「おにわ」「うみ」「ドッグラン」……といった飼い主の声を録音/再生することのできる饅頭サイズのボタンを、六角形のシリコンマットレスにたくさん嵌め込めるようになっている。プログラムどおりに学習を進め、「ボタンを押せば飼い主に意図を伝達できる」と理解できるよう繰り返しペットを躾けることで、「ボタンを押すこと」を符丁にしてペットと意思疎通ができるようになりますよ、という商品だ (適合・習熟するかどうかはトレーナー側の力量、環境はもちろん、種差や個体差にもよるらしい)。

 じっさい、動物とともに暮らす人びとはこのようなモジュールを用いなくとも、犬や猫が何を言わんとしているか、じゅうぶんに把握することができると経験的に知っているだろう。単純な快不快や喜怒哀楽、ご飯がほしい、撫でてくれ、etc..だけではなく、「あなたが悲しいと、私も悲しい」であるとか「今はたいして散歩に行きたくないけど、そうやって言うならまぁ行ってあげてもいいよ」「ご飯たべたい、その用事おわってからでも構わないから」といった複雑な意志の伝達も、かれら動物は身振り尾振りで伝えることができる、と。

 だが fluentpetでは「痛い」というボタンを設置して教えると、かれらが自分の意志でそれを押して「痛み」を表明することができるのだそうだ。これを知って、私は正直かなり動揺してしまった(ペットが痛みを感じる瞬間を意図的に作り出すことはできないため、習得機会は限られるが)。これは相当すごいことではないだろうか。痛みを正確に訴える/受け取るという疎通は、人間の場合でもかなり難しい。
 ヒト語と動物語の架け橋となるツールを置いてルールを覚えさせることで、「ちょっと痛そうだ」「なんか調子が悪いのかな」という一方向の推察と解像度にとどまっていたものが、「お腹が痛い」「足が痛い」という動物自身の訴えとして具体化したり、「すごく / ちょっと - 痛い」とペインスケールのような使い方ができたり……。たとえば老年期や看取りの際に、人間側がしてあげられるケアの質も変わってくるかもしれない。

 けれどもこういった類の道具を使うことは、猿に問題を解かせてコミュニケーションができたとよろこんでいるナントカ教授とか、子どもの能力開発と称してフラッシュカードを高速でめくりまくる教育者と似て、前提として相手をバカにしているから可能になる傲慢なのではないか、という疑念も私は払拭できない。
 人間の思う「言語」の型に嵌め込みたいというのは一個の支配でもあり、やっぱり抵抗感が残る。

1

 環境が変わったり、仕事のつかれで気分がふさいだりという程度のことですぐ連絡不精になってしまう性癖で、いろんな人たちと疎遠になってしまった。たまにしか会う機会のない友だちに自分の考えていることを伝えれたらいいなとずっと思っている(Spotifyでプレイリストを公開してくれている友だちが2人いて、いま何を聴いているのか知ることができてうれしい)。SNSではすぐに流れてしまうので、ブログを作った。がんばりの方向としてまちがっているかもしれないが、日常生活の中に文章を書く機会もなかなか無いから、覚え書きや引用、事務的な記録から始める。

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 人生は長くても百年そこらと見積もられているが、じっさいは労働したりストレスで酒を飲んだり睡眠が浅かったり差別的言説の直撃を喰らったりでもっと短い。そんな物理的な条件に左右されてたまるか、絶対に許さんという気持ちになる。二百年くらい余暇がある前提で物事はゆっくり考えたい。

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 マネキンや案山子だと思っていたものが実は人間だったと判明すると、びっくりする。しかし反対に、これは人間だと思っていたものがマネキンだと判っても、びっくりする(というよりも、ぞっとする)。

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 もう2年以上前になると思うが漫画『ワンピース』の「全伏線、回収開始」というコピーが話題になったり、ついこないだも『東京リベンジャーズ』が物語上の因果をあまりにも多く説明しないまま完結し、そのことが物議を醸した。これは果たして良い傾向と言えるだろうか。タイムリープものや異世界転生ものの流行とも関連する話になるだろうが、「伏線回収」という言葉もまた「読み手があらかじめ持っている想像力の範囲内で作品が完結すること」を強く促すようなきらいがあるのではないだろうか。

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 『ナイツ塙の自由時間』というチャンネルで、東京03飯塚が伏線回収について「そんなに大したことかなと思う」「後半に出てくるくだりを、前に入れておくだけ」「そりゃつながるよ。つながるように作ってんだから」と言っている(https://youtu.be/y2tskrpX3Rg)。言ってみればごく当たり前のことだが、それをわざわざ言わなければならないくらいの状況にはなっているということでもあると思う。

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 画家は理屈から演繹して絵を描くわけではない。絵を描きながら、様々なことを答えもなく考える。描きながら「その絵を描かなければならない必然性」がだんだん分かってきたり、「これはもう誰かが描いているな」とか「こういう絵がたしかあったはず」という参照点がおぼろげに浮かぶこともある。そういった問いに、画面上の矛盾や課題、ここに絵の具は置けないなという制作上の制限を加えて、格闘しながら問いを進めていく。そのような複合的・重層的な問の積み重ねとして、「ここはうまく行った/ここは失敗した」という結論のようなものが浮かび上がってくる(絵画が一応の完成を見る)。

 ここでなにかが浮かぶと言っても、必ずしも参照する絵を事前に決めて取り掛かるわけではない。ただ自分の絵を見て、手を動かしながらたえず考えている。だから「たしかにこの絵を見たことがある」という絵が(なかなか見つからないが)、後から見つかることもある。そうして、そうかあの絵のことが頭にあったのかと画家は合点する。ところが、そういったことにひとたび言及すると、「あの絵の“元ネタ”はこれ」とネットに書かれてしまうようなことがあるという。「そういう人はぜったい絵を描けません、残念ながら。“ネタの絵があって絵が描け”ません、残念ながら」

https://youtu.be/gAGhoGThAeo

(45〜53分くらい)

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 anoの新曲「ちゅ、多様性。」、まるで往時の相対性理論みたいな曲だと私が話していたら、じっさいに元・相対性理論の真部脩一が楽曲提供をしているのだと教わる。流行っていた当時あまり好きではなかったし、ペンタトニックスケールがどうこう音楽理論の話も私はさっぱり分からないのだが、頭の中には「相対性理論っぽい曲の特徴」が残っていたということか。

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 ラジオパーソナリティの男性が「いまの若いひとはZ世代なんて言われてるそうですけども、我々なんかは当時の大人に “新人類” と、まぁ酷い言われようをしていたものです」と話していて、こういう歳の取り方をしないように気をつけなければと思った。世代論と組織論をぶつ人間の傲慢さといったらない。

2022-10-16

 十三シアターセブンにて『「コミュニティ/タイの/ポストコロナの」タイの現代アーティストの映像作品オムニバス』を観る。

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アラヤー・ラートチャムルーンスック

 『クラス』(2005/16分)

 『月の裏切り』(2012/12分)

プラパット・ジワランサン

 『プロイ』(2020/51分)

ジャンジラ・シリプニョット
 『無常の海に浮かぶ』(2021/11分)

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 プラパット・ジワランサン『プロイ』。シンガポールで出稼ぎをするタイの移民労働者女性を、ほかの出稼ぎ労働者らの日誌から得た着想に重ねて描くドキュメンタリー風の映像作品。プロイさんを含めた移民労働者について作品が知ったかぶりをしていない、わかりそうでわからない、というところがよかった。

 アラヤー・ラートチャムルーンスック『月の裏切り』。部屋で画面を見つめる犬たちと作家の部屋に、クーデターや民主化運動弾圧のものと思しき映像、タイのTVドラマの映像がレイヤー状に重ね合わされる。

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 「タイの」という括りだけで考えることにそもそも無理があるとは知りつつも、生と死、タイの政治について取り扱う3作家を見たあと、あらためてアピチャッポンの異質性を考えていた。アピチャッポン作品は何故あんなにも眠くなるのだろうか。今年の「アピチャッポン・インザウッズ」では長編以外に自選短編集(10作品)も見たが、どれも完膚なきまでに眠かった。今回の4作品は内容の出来にかかわらず全く眠くならなかった。